春彼岸法座のご報告とご縁の振り返り
皆さま、いつも当寺の活動に温かいご理解とご協力を賜り、誠にありがとうございます。 去る3月29日(土)、春の彼岸法座を厳修いたしました。当日はお天気にも恵まれ、多くのご門徒の皆さまと共に、尊い仏縁を結ぶひとときを過ごすことができました。

今年の春彼岸法座では、東広島市にある明寶寺住職、藤井晃氏をお迎えして「命の儚さと向き合う—浄土真宗の視点から」というテーマのもと、法話をしていただきました。私たちは日々の生活の中で、忙しさや日常の雑務に追われ、自分の命や人生の意味について立ち止まって考える機会がなかなかありません。しかし、春のお彼岸は、亡き方を偲びつつ、今を生きる自分自身の命について深く考える、かけがえのない時期であります。
お彼岸とは、迷いと煩悩に満ちたこちら側の岸(此岸)から、悟りと安らぎの世界である向こう岸(彼岸)へと至る道を歩む、仏道修行の機縁です。浄土真宗においては、自力の修行によって彼岸を目指すのではなく、阿弥陀如来の本願に身をまかせ、今この瞬間に浄土の救いにあずかっている身であることを味わい直すご縁として、このお彼岸を大切にいたします。

法座の中では、良寛和尚の有名な一句「散る桜 残る桜も 散る桜」をご紹介しました。この句には、見る者の心を静かにゆさぶる深い真理が込められています。
「散る桜」——すでに花びらが散った桜は、過ぎ去った命や出来事を象徴します。 「残る桜も」——今なお咲き誇る桜の花も、やがて散っていく定めを持っている。 「散る桜」——つまり、すべての命は、例外なくやがて終わりを迎える存在である、という厳粛な現実を、淡々と詠んでいるのです。

この句は、私たちに「今をどう生きるか」を問いかけています。儚く移ろいゆく命だからこそ、一瞬一瞬を丁寧に生きることの大切さ。そして、どれほど尊い命であっても必ず終わりがあることを自覚しながら、その命が今ここにある奇跡に感謝する心が育まれていくのです。
浄土真宗の教えでは、私たちはすでに阿弥陀如来の本願によって救われている存在であるといただきます。その救いは、生死の苦しみを超え、どんな時も見捨てられない「必ず救う」というはたらきの中に、今ここに生きている私たちがすでに抱かれているということであります。
春彼岸という節目に、私たちは亡き人を通して、自分自身の命のあり方を問い直し、阿弥陀如来の願いに耳を傾け、念仏の教えにあらためて遇わせていただく尊いご縁をいただきました。日常の中ではつい見失いがちな命の尊さを、仏さまのまなざしの中で見つめ直すことで、私たちの生き方もまた新たに照らされていくのではないでしょうか。
最後に、ご参詣いただいた皆さまに心より御礼申し上げます。また、ご都合が合わずご参加できなかった方々にも、この法座のご縁が少しでも伝わればと願い、筆を執らせていただきました。
どうぞ皆さま、それぞれの日常において、念仏申す生活を大切に、仏さまの光に照らされた日々を歩まれますように。
南無阿弥陀仏
