お寺掲示板#23 できなかった自分も、遠回りした自分も、「今」のあなたが気づき、歩き出すなら、それでいい

この言葉に触れ、皆様の心にはどのような想いが去来したでしょうか?

私たちは、誰もが、人生という旅路の中で、様々な経験を重ねてまいります。私たちは皆、人生の道のりで、思い通りにいかないことや、遠回りをしてしまったと感じる瞬間に直面します。それは、まるで霧の中にいるような心細さや、立ち止まってしまうほどの後悔を伴うかもしれません。

  • 「あの時、もっと努力していれば、違う結果になったのに…」
  • 「なぜ、あんな無駄な時間を過ごしてしまったのだろう…」
  • 「あの選択さえ間違えなければ、今頃は…」

そうした過去の失敗や後悔、あるいは無駄だと思ってしまうような経験は、時に私たちの心を重くし、未来への一歩を踏み出すことをためらわせてしまうことがあります。過去の影が、現在の私たちを縛り付けてしまうかのように感じられることもあるかもしれません。

しかし、仏教の教えは、そうした過去の自分を否定するものではありません。むしろ、そのすべてを包み込み、受け入れることから始まります。

「できなかった自分も、遠回りした自分も」

そう、それで良いのです。失敗や遠回り、無駄に思える経験。それらは決して、あなたの人生から切り離されるべきものではありません。むしろ、それらがあったからこそ、今のあなたがここに存在しているのです。

仏教では、縁起(えんぎ)という教えがあります。これは、すべての物事は、単独で存在しているのではなく、様々な因縁(原因と条件)が複雑に絡み合って成り立っているという考え方です。つまり、それらの経験は、単なる過去の出来事ではなく、私たちが真の智慧や慈悲を育むための、尊い学びの機会であったと仏教は教えています。失敗や遠回りがあったからこそ、私たちはより深く物事を洞察し、他者の苦しみに寄り添えるようになるのです。

痛みを知り、困難を乗り越えようと足掻いた経験は、私たちを深くし、他者への慈悲の心を育む糧となります。例えば、病を経験した者が、同じ病に苦しむ者の痛みを深く理解できるように、自身の不完全さや弱さを知ることは、他者を思いやる心へと繋がります。それは、仏教でいう「自未得度先度他(じみとくどせんどた)」(自らがまだ悟りを得ていなくても、まず他者を救おうとする心)に通じる、尊い心の働きと言えるでしょう。

そして、この法語の真髄は、その次の言葉に集約されています。

「“今”のあなたが気づき、歩き出すなら、それでいい。」

過去は変えられませんが、「今」この瞬間から、私たちは変わることができます。仏教では、刹那(せつな)という言葉で、時間の最小単位、すなわち「今、この瞬間」を尊く見つめます。過去に囚われ、未来を案じるばかりでは、私たちは永遠に心の安らぎを得ることはできません。

大切なのは、過去の評価に囚われず、「今」という瞬間に意識を集中し、その一瞬一瞬を大切に生きることです。なぜなら、真の変革は常に「今」からしか始まらないからです。この「今」に気づき、行動を起こすことこそが、あなたの人生を豊かなものへと導く鍵となります。

  • これまで目を背けていた自身の煩悩や課題に、、向き合う勇気を持つ。
  • 諦めていたことに、、もう一度、純粋な心で挑戦してみる。
  • 日常の中で見過ごしがちな小さな幸せや、周囲への感謝の気持ちを、、伝える。
  • 仏様の教えに触れ、、新たな学びを始める。

もし、あなたがこの言葉に触れて、何か心に響くものがあったなら、それはすでに「気づき」の始まりです。その気づきこそが、私たちを真の幸福、すなわち涅槃(ねはん)へと導く第一歩となるのです。涅槃とは、煩悩の火が消え、心の安らぎを得た状態を指します。それは遠い理想ではなく、「今」この瞬間の気づきから始まる、心の変革の過程なのです。

私たちは皆、完璧な存在ではありません。つまずき、迷い、遠回りもします。しかし、それでいいのです。大切なのは、どんな自分であっても、その「今」に気づき、学び、そして歩み続ける勇気を持つこと。

この法語が、皆様の心の重荷を少しでも軽くし、そして「今」という尊い瞬間に光を当て、未来への確かな一歩を踏み出すための、温かい道しるべとなることを心より願っております。日々の生活の中で、ふと立ち止まり、この言葉を思い出していただければ幸いです。

合掌