当寺院の沿革

順教寺は、1574年(天正2年)頃、教春により開基されました。以来、様々な時代の移り変わりを乗り越え、脈々と受け継がれて現在に至ります。

歴代住職

開基 1574年
(天正2年)
第一世 教春
(きょうしゅん)
1780年
(安永9年)
第八世 頓乗
(とんじょう)
1602年第二世 正順
(しょうじゅん)
1804年
(文化元年)
第九世 速満
(そくまん)
1669年
(寛文5年)
第三世 空玄
(くうげん)
1824年
(文政7年)
第十世 楽聴
(らくちょう)
1703年
(元禄16年)
第四世 残立
(ざんりゅう)
1873年
(明治6年)
第十一世 正覚
(しょうかく)
1735年
(享保20年)
第五世 立海
(りゅうかい)
1924年
(大正13年)
第十二世 正俊
(しょうしゅん)
1747年
(延享4年)
第六世 亮淳
(りょじゅん)
1972年
(昭和47年)
第十三世 良信
(りょうしん)
1773年
(安永2年)
第七世 立好
(りゅうこ)
1977年
(昭和52年)
第十四世 文雄
(ぶんゆう)

当時院の歴史

 教春は、元々は毛利家の家臣であった吉川経好(後の市川経好)が市川邑(現、白木町市川)に建設した館を買い取り、その地に順教寺を建立しました。教春が、市川経好から館を買い取った事実は高田郡村々覚書に残っています。その市川経好の館であった名残が順教寺の石垣として現在も残っています。

 市川経好は毛利輝元の命を受け山口奉行として周防(現、山口県)の高巌城の城主となり市川邑を去りました。市川経好が高巌城の城主になるにあたり、教春が、市川経好の館を買い取ることができたわけです。

 余談ですが、市川経好には市川局(おそらく市川邑出身の女性)という妻がいました。その市川局は、永禄12年(1569年)に大友宗麟の支援を受けた大内輝弘が市川経好の居城の高巌城を包囲しました。大内輝弘が高巌城を包囲した際、市川経好は不在であり、城には妻の市川局と僅かな家臣、守備兵しか残っていませんでした。しかし、市川局は城兵を指揮して大内軍を撃退し、城を守りきりました。この活躍により、後に毛利輝元から市川局は感状を受けています。その感状は現在も残っています。

 教春が現在の地に順教寺を建立して以降、14世の文雄までの間に本堂を拡張したり庫裏や客殿の建設を行い、現在の順教寺の姿となっています。