2025年報恩講法座「法事や供養を通じて仏縁に会う」

11月14日お勤めされた報恩講法座では、栗原一乗先生が「法事や供養を通じて仏縁に会うということ」をテーマに、浄土真宗の教え、特に「法事」という営みが現代社会において持つ真の価値について深く説かれました。
法事というと、準備や親戚付き合いなど「面倒なもの」と感じる方が増えているのが現状かもしれません。しかし、もしその「面倒」な習慣を捨て去ることで、あなたの家や家族が取り返しのつかない孤立に向かうとしたら、どうでしょうか?
今回の法座では、この驚くべき問いの答えを、人工知能(AI)と親鸞聖人の90年のご生涯という「経験者」の知恵を通して探りました。
目次
「面倒」だからこそ価値がある:AIが現代人に突きつけた警告

法事は準備も大変だし、親戚付き合いも面倒…」 正直、そう思っている方も多いのではないでしょうか。
「法事なんて必要ない」「お墓は持たない」という考えが広がる中、先生は、ある知人がAI(チャットGPT)に「法事の重要性」を尋ねた際の、AIの驚くべき洞察を紹介されました。
AIは、法事を続ける家とそうでない家の未来について、次のような手厳しい警告を発したというのです。
AIは、法事を続ける家は「思いやりを欠かさない」「お仏壇やお墓を大切にしている」「法事やお葬式に人を呼び、繋がりを大事にしている」とし、そして「面倒に見えるお仏事こそが、実は家の空気を整え、未来への貯金となっているのです」と断言しました。
一方で、AIは「お墓は結構です」「法事はしません」と伝統を絶った家が数年後どうなるかについても語っています。最初は問題ないように見えても、徐々に人が寄りつかなくなり、困っても誰も頼れないという状態に陥るといいます。そして最終的には、「あの家どうなったんだろうぜと誰の話題にも上がらなくなる」という、孤立の末路を警告しました。
AIの指摘の核心は、「心があって形となっていく」ことの重要性です。法事とは、亡くなったその人のことを思う気持ち(心)があるからこそ、お仏事という形に繋がっていくものなのです。
「記憶の継承」と「経験者の知恵」:法事の二つの価値

法座では、法事の営みには、AIが指摘した「未来への貯金」となる具体的な価値が二つあると示されました。
① 仏縁は「人の縁」でもある:記憶の継承
法事は、ただ仏様とのご縁(仏縁)を繋ぐだけでなく、「人 と 人 と の 縁 を 繋 い で い く 大 切 な もの」です。
かつて、法事の後の「お斎(おとき)」では、年配者が若かった時の苦労話や親族の話を繰り返すことがありました。若者は「また同じ話をしている」と思いながら聞いていたかもしれませんが、その「聞いた」という事実が記憶として残っていくのです。それがやがて、「家族の歴史」「ご先祖様の生きてきた証」として受け継がれる記憶の継承となります。
この「面倒なことを面倒なこととして当たり前にし ていく」営みこそが、次世代に届く財産になっていくのです。
② 経験者に人生の「苦」を問う機会
人生は「後になって分かることばかり」です。大切な人との別れに直面した時、「もっといろんなことをしてあげればよかった」と後悔しても、時間は戻りません。では、どうすれば後悔を減らし、より良く生きられるのでしょうか? AIが出したベストアンサーは、「すでに経験した人に聞くこと」でした。
法事は、仏様や先人たちの知恵(仏教の教え)を通して、忙しい日常では後回しにしがちな「自分はどう生きるか?」という問いに向き合う大切な時間でもあります。
- 90年の苦難を生き抜いた「親鸞聖人」 浄土真宗の宗祖・親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、90歳まで生きられました。その生涯は苦難の連続でした。 80歳の頃には、手紙に「目も見えなくなってきました。何事も忘れてしまいます」と、老いの苦しみを正直に吐露されています。
- カッコつけない生き方を学ぶ 聖人は、苦しみから目を背けたり、強がったりしませんでした。「自分の思い通りにならないのが人生だ(我が身の苦)」と認め、その上で阿弥陀様を頼りに生き抜かれました。
法事でこの教えに触れることは、「思い通りにならない時、どう心を保てばいいのか?」という人生の難問を、大先輩(経験者)の生き方を通して問い直し、学ぶ貴重なチャンスなのです。
親鸞聖人は90歳まで長寿を全うされ、そのご生涯は「人生で経験するありとあらゆる悲しみ苦しみを、身をもって経験された方」です。聖人は80歳の頃には、老いの苦しみを「目も見えず候。何事も皆忘れて候」と正直に記されています。
自分の思い通りにならない「我が身」を抱えて生きることは厳しいことです。聖人は、この逃れられない「我が身の苦」と向き合い、「我が命の行き先は地獄だ」とまで言われながらも、阿弥陀様の願い(ご本願)を寄りどころとして生き抜かれました。
法事とは、「思い通りにならない時、どう心を保てばいいのか?」という人生の難問を、大先輩(経験者)の生き方を通して問い直し、学ぶ貴重なチャンスなのです。
「正論」では救われない:阿弥陀様の還相(げんそう)の力

人生には、東日本大震災の被災者の言葉にもあったように、家族や希望を奪われた「答えのない悲しみ」があります。「人生は無常、何が起こるか分からない」という教えは正論ですが、悲しみの中にいる人にとっては「救いの言葉にはなりません」
阿弥陀如来は、自力では救われない私たち凡夫(不能の有情=救われ難い衆生のこと)のために、私たちが仏となるための「全ての手立て」を考え、完成させました。それが「本願力廻向」(他力の廻向)であり、「南無阿弥陀仏」の名号に込められています。
この阿弥陀様の救いには、「行く姿(往相)」と「帰る姿(還相)」の二つの働きがあります。亡き人は、阿弥陀様の力によって浄土に生まれ仏となり、そこで仏としての仕事(衆生を救う働き)をされます。
ある高校生と亡き父の物語
法話の中で、こんなエピソードが紹介されました。 亡くなったお父さんに、高校生の息子さんがこう語りかけたそうです。
「お父さん、仏様になったら忙しいんだってね。みんなを助けるのがこれからの仕事なんでしょ。 こっちは僕が頑張るから、そっち(仏様の世界)の仕事をお願いね。だいぶ先になると思うけど、僕もいつかそっちに行くから」
彼は、「お父さんは消えたのではなく、仏様として新しい仕事(家族を守る仕事)をしてくれている」と信じることで、悲しみの中から一歩踏み出す力を得たのです。
亡き人は、阿弥陀様のお力によって「かわいそうな人ではない」のです。この事実を知った息子は、「この悲しみの中を 一歩踏み出して いく力」を与えられ、「僕もこっちで頑張るから」「だいぶ先になると思うけど僕もそっちに行くから」と、自らの人生を歩み始めることができたのです。
亡き父は、法事のご縁を通して、最も伝えたかったこと、すなわち「私は仏となって、今度はみんなを支え導いていく。私のことで心配する必要はないよ」という願いを息子に残したのです。
まとめ:法事に込められた三つの願い

法事の核心は、大切な人の命の行き先、そして我が命の行き先を阿弥陀様の救いを通して聞かせていただくことです。
私たちが法事を務める際には、以下の三つの心が大切です。
- 讃嘆(ほめたたえ、感謝していく): 亡き人が歩まれた人生のご苦労を褒めたたえ、感謝を捧げること。
- また会う約束をさせてもらう: 再会できる世界(浄土)があるからこそ、私たちは別れがあっても強く生きていくことができる。
- 要縁(自分のこととしてご縁に会う): 「私はどこに向かって生きていくんだろう」という問いをもって、仏教の教えを聞かせていただくこと
法事というご縁は、面倒だからと短縮すべきものではなく、人との繋がりを広げ、私たちの未来への財産となる大切な日常の営みです。このご縁を通して、強く明るく生き抜く力をいただきましょう。


