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若院のつぶやき

お寺掲示板⑧

四字熟語で、全豹一斑(ぜんぴょういっぱん)という言葉があります。

この四字熟語の意味は、物のごく一部を見て、全体を推測したり批評したりすることです。

言い換えると、少しの情報でその物の事を知った気になっているということです。

私の経験談ですが、以前子供になぜ「風」が吹くのか、「雨」が降るのか聞かれたことがあります。

子供に聞かれるまで、日常的に風に吹かれたり、雨に降られたりしていたので風や雨について自分の中でこんなものであるというイメージはありました。

そして、子供に聞かれるまで私は風や雨について知っていると思っていました。

しかし、子供からの風や雨に対する問いに対してその時は何となく答えはしましたが、自分が納得できる回答はできませんでした。

自分は知っているようでいても、実は知らないということが往々にしてあるものだなとその時実感しました。

認知科学者のスティーブン・スローマン教授とフィリップ・ファーンバック教授は、その著作である「知ってるつもり、無知の化学」の中で、人の知識の錯覚について実験をしています。

知ってるつもり、無知の化学について

知ってるつもり、無知の化学にご興味の方はこちらを参照してください。

その実験とは、「ファスナーの仕組みについて理解しているか?」という問いに対して、被験者に知っている度合いを7段階で評価してもらい、次にファスナーの仕組みについて具体的な説明を求めるものでした。

実験の結果、ファスナーの仕組みについて知っていると高い評価をつけていた人でも、いざその仕組みについて説明を求められるとその多くの人が上手く説明することができなかったそうです。

そして、再度7段階評価を行うと最初の時よりも評価結果が下がったそうです。

実験結果から分かったことは、人は、何気なく普段の生活の中で見たり、聞いたり、使ったり、触れたりしているものであれば、そのものの事を実は詳細まで知らなかったとしても自分は知っていると考える傾向があるということです。

この事から言える事は、普段の生活の中で本当はあまり知らないことでも、我々は知った気になっているということです。知っているという勘違いが起きているわけです。

この勘違いが時に人の言動に影響をあたえることがあります。

例えば、人には本当はあまり知らないことでも、そのものの全部を知っているような物言いをしたり振舞ったりすることがあります。

それ以外にも、知らないという人に対して知ったかぶりをして説明をしたり、時に馬鹿にしたりすることもあります。

大きく言うと、知っている人と知らない人の差はほとんど無いにも関わらず。

有名な古代ギリシアの哲学者であるソクラテスは、「自分自身が無知であることを知っている人間は、自分自身が無知であることを知らない人間より賢い。」と言っています。

また、「真の賢者は己の愚を知る者なり。」とも言っています。

仏教において、無知は「真理が見えない状態」の事をさしています。

ここで言う真理とは、この世に存在している、我々を支配している普遍的な法則と考えていただければと思います。例えば、この世に存在するありとあらゆるものは常に変化するといった法則(諸行無常)です。

そして、多くの場合、人は真理が気づかない状態にあると仏教では考えられています。

真理に気づかないからこそ、人は本来的にはとるに足らない事に心を奪われ精神的に苦しむことがあります。

例えば、人は往々にして自分と他者を比較して優越感や劣等感をもったりします。

その他者と比較して優劣を決める尺度自体がいいかげんで儚いものであるにもかかわらず・・。

そして、一人ひとりが唯一無二で尊い存在であるにもかかわらず、そのいい加減な尺度の結果を重視したりします。

本当は、大して違いが無いにも関わらず。そして、その比較が自分を精神的に苦しめる原因になっているとも知らず。

この考えは自分が人よりも物事を知っているという自尊心にも同じことが言えます。

自分は知識があると思っていても、つきつめて行けば分からない事は沢山あるわけです。前述した、ファスナーの例はそれを証明していると思います。

そんな中で、自分が人よりも沢山知っていると振舞う事は滑稽にも見えます。

それよりも、知っているつもりになっている事も突き詰めていくと知らないことが実は沢山あるんだという事を受け入れ、知っていると勘違いしてしまっている自分を戒める事が大切なのではないでしょうか。