お寺掲示板①

順教寺では、お寺の掲示板へおよそ2週間に1回のペースで標語の掲載を行っています。今回は、その標語の意味合いについてご案内します。

”感謝の反対は、当たり前”

順教寺のお寺掲示板より

感謝とは自分以外の誰かや何かに対してありがたいと思う気持ちです。我々が、誰かに対して感謝をする時というのは多くの場合、その誰かが自分のために何か役立つことをしてくれた時だと思います。

例えば、母親に自分の部屋を片付けてもらった時、妻に病気の時に看病してもらった時、友達に落ち込んでいる時に励ましてもらった時など、何かしらの行為を自分に向けて行ってもらった際に感謝の気持ちというのは起きると思います。

一方で、上記と同じことをしてもらっても感謝の気持ちが起きないことが我々人間にはあると思います。それが、”それをしてもらう事が当たり前だと思っている時です。” 

母親が、毎日自分の部屋を掃除している事が当たり前だと知らず知らずのうちに思い込む人は、おそらく自分の部屋を掃除してくれる母親に対して感謝する可能性が低いと思います。そして、部屋を掃除してくれた母親に対して「ありがとう」という言葉も伝えないかもしれません。

自分が病気の時に妻に看病してもらう事を当たり前だと思っている人は、おそらく妻に対して感謝をする可能性は低いと思います。それどころか、病気の自分に代わって妻にほしい物を買いに行ってもらった際に、妻が買い忘れしたりすると妻を怒るかもしれません。

当たり前とは、辞書で調べると「そうあるべき事」と記載されていました。しかし、よくよく考えてみるとこの「当たり前」という事は世の中に存在しているでしょうか?おそらく、存在しないのではないかと思います。

例えば、地球には空気があります。日々、我々が吸っているこの空気ですが、地球が現在の姿になる際に生じた偶然の産物です。他の太陽系にある星には、地球と同じ濃度の酸素は存在していません。

我々が日々当たり前のように飲んでいるも同様です。我々が普段飲んでいる水は、地球上に存在する水の総量のおよそ1%だそうです。そして、他の太陽系に存在する水のほとんどは氷または水蒸気であり、液体の水はほとんど存在していないそうです。水も前述の空気同様に偶然の産物です。

このように、我々が普段当たり前だと思っていることは少し歯車狂うと崩れるような微妙なバランスの上に成り立っている事が多くあります。

言い換えると、普段、我々が当たり前だと思っていることは当たり前ではないという事です。自分の部屋を掃除してくれる母親、病気の時に看病してくれる妻、落ち込んでくれる時に励ましてくれる友人の存在。そして彼・彼女らが「常に存在している事」、「自分の事を思ってくれている事」、「自分のそばにいてくれる事」。それら、すべてが「当たり前」ではないのです。

我々が普段当たり前えに思っている事は、「当たり前ではないことが当たり前のように起きている奇跡のような瞬間」です。

その当たり前のように見えている奇跡の瞬間に対して、常に我々は謙虚に向き合う必要があるのではないかと感じました。そういった思いで、上記の標語を作成しました。